生きづらさを抱える人の伴走者・セキグチ麻央のブログ

不登校・ひきこもり関係、地域の魅力(人やもの)、自然教育、青年海外協力隊、本などをテーマに発信します。

にんげんはなにかをしなくてはいけないのかー谷川俊太郎

にんげんはなにかをしなくてはいけないのか

 

このタイトルは谷川俊太郎さんの『はな』という詩の一節です。

いいなぁ、と思ったので、以下引用します。

 

せんせいは  はなのなまえを  おぼえろという

だけど  わたしは  おぼえたくない

のはらのまんなかに  わたしはたっていて

たっているほか  なにもしたくない

はだしのあしのうらが  ちくちくする

おでこのところまで  おひさまがきている

くうきのおとと  においと  あじがする

にんげんは  なにかをしなくてはいけないのか

はなは  ただ さいているだけなのに

それだけで  いきているのに

 詩集『はだか』(筑摩書房)より

 

はだか―谷川俊太郎詩集

はだか―谷川俊太郎詩集

 

 

人間って、いつも “なにか” に、追われている気がします。

勉強?仕事?家事?etc・・

 

そして、なにかに縛られている気もします。

常識?責任?評価?etc・・

 

日常に埋もれて、通り過ぎていってしまうような、

それでも、大切な感情や感覚。

 

それらを思い出させてくれるようなこの詩が好きです。

 

 

ただ “生きる” ことが許されないような現代の無言の圧力に、

「にんげんはなにかをしなくてはいけないのか」

と挑戦状を叩きつけているようでもあります。

  

 

そもそも、

人間はなにかをしなくてはいけないのでしょうか?

 

花と同じく、この地球に命を授かった者として、

ただそこに在るだけではいけないのでしょうか?

 

はなは  ただ さいているだけなのに

それだけで  いきているのに

 

わたしが小学生のとき、

家の手伝いをすると、母が褒めてくれました。

 

高校生のとき、

テストでいい点を取ると、父がお金をくれました。

 

何かをしたら、評価を得られる、という構図。

逆に言えば、何かをしないと評価してもらえない、認めてもらえない。

まるで、何かをしなければ価値がないかような...時にそんな錯覚にさえ陥ってしまいます。

 

”何か”とは、勉強かもしれないし、仕事かもしれません。

誰かの期待に応えること、かもしれません。

いい妻・夫、いい母・父、いい子、いい社会人になることかもしれません。

 

 

でも、わたしはたとえ何もしていなかったとしても、褒められたかったです。

テストでいい点を取らなくても、認められたかったです。

 

ただただ、ここに居ていい存在なのだと、

ただただ、いるだけで、素晴らしいのだと。

※今まで一生懸命に育ててきてくれた両親にわがままを言うようでとても申し訳ないのですが、上記は20代になってから気づいた私の中にあった欲求です。

 

だから、

代わりに今この記事を読んでくださっている方に伝えたいです。

 

あなたが、この地球に、今生きている。 

それは、それだけで、奇跡的で尊いことです。

 

 

 

”きれいごと”、と思われるかもしれませんが、

ある人が教えてくれました。

 

「人は色んなことを体験するために生まれてくるんだ」と。

 

人の魂は遊ぶのが大好きで、色んな経験を通して、磨かれていくのだそうです。

 

でも、生まれてこないことには、

体験することも、感じることも、遊び学ぶこともできないのだと。

 

だから、生きている中で経験したことや過ごした時間は、

決して無駄なんかじゃないのだと。

(※実家は神道ですが特に信仰心が強い訳ではありません。でもこの話を聴いて、そんな気がしてきたのです。)

 

たとえ、「なにもできない」「なにもしていない」 と思える時でも。

 

たとえ、ボーっと過ごした一日でも。

 

 

思えば、私たちは日々なにかを感じていますよね。

 

例えば、太陽のまぶしさや温もり、毛布の肌触り、コーヒーの香り、雨の匂い、プリンの食感と美味しさ、階段を下りるときの振動、久々に走った後の息切れ・・・

 

なんてことない事かもしれませんが、

上に挙げたことは すべて “生きている”から、感じられることです🌱

 

ザ・ビートルズThe Beatles)の「Let it be」

 Let it beには、なすがままに、あるがままに、という意味があります。


www.youtube.com

 

 ―――昔話 その1―――

統合失調症だった姉が、大学を休学していた間、

「学校に行ってない、仕事もしてないのに、お金ばっかり使ってる。 

 ていたらくでどうしよう。でも何もしたくない。」 と言っていました。

 

 

「 なにもしたくない」

 

世間的には甘えや怠惰ととられがちで、

人前で口にしづらい言葉になっているような気がします。

 

それでも、当時の姉の本音でした。

 

姉の場合、

家でも家族に気を遣って、

人のことを考えて(迷惑とか、期待とか)、

考えすぎて、

そして自分を責めて、

疲れ果てた末に、

「なにもしたくない」

に至ったのだと推察します。(違っていたらごめんね)

 

「なにもしたくない」に至るまでには、

きっと葛藤があったはず。

なにもしてなく、なかったはずです。

 

当時の姉には、

心が栄養を蓄える時間が必要だったんだと思います。

でも、姉は頑張りすぎてしまいました。

nicanica.hatenablog.jp

 

だから、当時の姉に今会えるなら、

なにもしたくないなら、なにもしないで休んでいいんじゃない?

と伝えたいです。

 

――――――――――

 

* 

 

 ―――昔話  その2―――

学生時代、授業の発表で使う資料が出来上がらないまま、発表当日になってしまったことがあります。

 

「資料が完成していない、どうしよう‥」と発表直前までソワソワ。

そんな私を見かねてか、同じ発表グループだった方がかけてくれた言葉が、

 

「それでいいんじゃん?」

 

でした。

 

無意識のうちに自分にかけていた呪文

「こうしなければ、こうでなければ、ここまでできなければ!」を、

一瞬にして解いてくれた言葉でした。

 

確かに、発表直前に資料の出来について焦ったところで、

持っている資料も状況も変わりません。

その言葉を聞いた後は心が落ちつき、今ある資料(もの)でどう発表するかに集中することができました。

 

\\//脱線\\//

昔話 その2を書きながら、

赤塚不二夫著の「天才バカボン」に出てくるバカボンのパパのセリフ、

「これでいいのだ!」が頭に浮かんできました。

 赤塚不二夫公認サイトこれでいいのだ!!

「これでいいのだ!」と「それでいいんじゃん?」って、

対象が自分と他者で違いますが、意味合いは似ていませんか?

\\///\\\//

――――――――――

* 

さて、

昔話が長くなりましたが、詩『はな』に話を戻します。

 

 

苦しいとき、辛いとき、情けないとき、

その苦しさや辛さ、情けなさを感じることを避けるため、

そして自分を守るために、

人は無感覚、無感情になることがあります。

 

呼吸が浅くなり、笑うことさえ忘れてしまうことがあります。

実際に大学院に通っていた頃の私がそうでした。

 

当時の私は劣等生で、

教授からお叱りをうけ、トイレや帰り道に泣くことはしょっちゅう、

「やらなきゃ」と思ってもやるべきことが全く手につかず時間だけが過ぎ、

ゼミ発表の準備が間に合わないことやゼミの無断欠席未遂もありました。

教授からのすすめもあり、心療内科を受診したことも。

他学科の同期の支えのおかげでなんとか修士号は取得できたものの、

修論発表は悲惨なものでした。(発表前日にPCが壊れ、パワーポイントがズレ、元居た学科でお世話になった教授がしてくれた質問に答えられず etc...)

 

 

もしも あなたが、何かに追われ、縛られ、

日常の中のちいさな”好き”を感じることさえ忘れてしまっていたら、

詩『はな』を思いだしてみてください。

 

そして、

陽や月の光をあびながら、

深ーく息を吐き出して、

息を吸うときに、"くうきのおとと においと あじ" を感じてみてください。 

 

色んなストレス・圧力、人間関係、世間体に囲まれた現代に、

生きている。

 

生きるているだけで、

十分立派です。

 

たまには、というか、毎日でも、

自分をほめてあげて、

いいんじゃないでしょうか?

 

「自分に厳しく、他人に優しく」とよく耳にしますが、

自分に優しく、他人に優しく」で、

いいんじゃないでしょうか??

 

 

◎同じ詩集に所収されている『がっこう』では非日常が描かれています。

こちらのブログで全文引用されています。

がっこう | 詩人たちの島 - 楽天ブログ

 

詩を読んでどんなことを感じたでしょうか?🌱

 

 それでは、アディオス👐